毘沙門天 最正山 覚林寺
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平成二十八年一月四日

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最正山 覚林寺


日蓮宗

縁起


覚林寺は、小湊誕生寺十八世可観院日延が開山となり寛永8年(1631)に創建したといいます。
可観院日延は、朝鮮の王族出身ですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正に捕えられ、後小湊誕生寺十八世となり、当地に隠居、当寺を創建したといいます。

当寺では加藤清正を祀った清正公堂が著名で毎年五月四日五日の両日に行われる清正公大祭には人生の苦悩に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与されるという他、軍神の毘沙門天を祀っております。
御朱印



 「芝區誌」による覚林寺の縁起

覺林寺 白金今里町四番地
日蓮宗安房誕生寺末、寛永年間創建し、最正山と號する。
開山は僧日延である。
門外電車通に大石標が立つて居り、其裏面には「鎮守清正公大神儀」背面には「寛延四辛歳閏六月二十一日最正山日要」と鐫つてある。
當時の住職の建てたものであることが判る。
門には覺林寺の扁額を掲げてある。
門内には浄行尊の石像が小宇の下に祀られ、参詣者は藁束で之を洗ふ。
正面は清正堂で、有栖川宮熾仁親王の書かれた「破魔軍」の大額が掲げてある。
ここには加藤清正が祀つてある。
寺傳に依ると、文禄年間清正凱旋の時、朝鮮人を伴つて歸り、安房誕生寺の貫主とした。
其貫主こそ日延で、寛永四年に江戸に来り、八年に當寺を開いたといふ。
當寺には清正の随身である釋迦牟尼佛の立像を傳へてゐるが、清正大尊義を安置したことは、關東の諸寺中最も古いといはれる。
例年五月四、五、六の日に勝守(しやうぶ守とも云ふ)を授けるが、賽者はなかなか多く、今日でも清正公の勝守として有名である。
毎月十四、二十四日を縁日とする。

寺寶には次ぎのやうなものがある。
釋迦牟尼佛木像(加藤清正中守本尊)一體、
烏帽子岩(竹中重治といふ銘がある清正所持品)一個、
清正陣中の指物(金地に桔梗紋)一張、
朝鮮古鐙一個、
清正書翰(七紙巻物)一巻、
豊臣秀吉より清正への感状(冠山城攻の時のもの)一幅、
織田有楽斎より清正への書翰一幅、
太刀(陸奥三善長光作)一振、
太刀(關兼光作)一振、
長刀(胴田貫正國-小山上野介-作)一振、
片鎌鎗(同上作)一本、
脇差(仙臺綱宗作)一振、
脇差(来國俊作)一振、
短刀(舞鶴友英作)一振、
脇差(白鞘無銘、傳云、五郎正宗作)一振。
なほ境内には祖師堂、妙法堂、稲荷祠がある。(「芝區誌」より)


境内掲示による覚林寺の縁起


通称白金の清正公さまと呼ばれる当山は、最正山覚林寺と号し寛永8年(1631)可観院日延(韓国の王族)によって開創されたお寺であります。
開創と同時に上人によってご奉安申し上げられた清正公大尊儀は古く江戸時代より開運の神さまとして霊験まことにあらたかで広く庶民大衆に崇敬されてまいりました。
毎年五月四日五日の両日に行われる清正公大祭には人生の苦悩に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与され、東都における清正公信仰のみなもととしていまもなお各界の参詣祈願者でにぎわいます(境内掲示より)



御府内寺社備考による覚林寺の縁起

安房国小湊誕生寺末 白金村
最正山覚林寺、境内古跡年貢地248坪外抱地360坪
起立之儀は本寺十八世可観院日延寛永年中 吋所に隠居仕其後承応(1652-1654)2年久成坊と申者借地に於開基仕候。
寺号之儀を開山代○○○相分不申候元禄五壬申年五月寺社御奉行本多紀伊守様
厳有院様 御善古跡寺院に被仰付候。
開山可観院日延寛文五乙未年正月廿六日卒。
本堂、梁間三間桁行五間。内棟方二間。本尊三宝祖師。
鎮守清正神儀堂。
内棟二間半二間。
中之間、三間半に二間。
拝殿一間半六間。
清正神儀、木坐像丈一尺一寸。
右は開山日延代安座し来候。
釈迦牟尼佛、木立像丈五寸。
右は清正神儀陣中当本額背小大光山日植と祀有之。
細字法華経一部。

寶物
一清正神儀真書軍書翰一通
一清正神儀画像、束帯坐像半彩色一幅
一朝鮮陣中幡、絹地白丈五尺四寸余、幅一尺五寸五分、一流。
一清正公所持盆
一清正公乗鞍、青貝摺骨許
一清正公陣中指物
一太閤秀吉殿御感状
一開山日延真筆曼陀羅
一鑓、長二尺三寸幅一寸
一半鐘
一宇田国宗太刀
一延壽政勝作刀
一朝鮮人起請文
一鯖尾兜(御府内寺社備考より)





朝6時半頃の気温は+0.6℃で、皇帝ダリア・オリヅルランも元気です。
バスで大宮駅に向かいました。ここで湘南新宿ラインの列車に乗りますが、
上野東京ラインが開通したので注意しないと違う方向に行ってしまいます。
恵比寿駅で湘南新宿ラインの列車から山の手線に乗り換え目黒駅で降りました。
目黒駅のホームの南端から南北線に移動し、白金高輪駅で降りました。
地図で覚林寺に行く出口を確かめました。高輪消防署げ目印です。地上に出ると向かいに消防自動車が見えました。
東京消防庁 高輪消防署 高輪消防団本部
高輪警察署 清正公前交番を通り、目黒通り 312号を渡りました。      
鎮守清正公大神儀    目印の紅い七福神の幟が立っています。
覚林寺山門

開運 守護 清正公大神儀御鎮座
山手七福神 大毘沙門天王御安置


 江戸最初山手七福神 毘沙門天    次のお寺さんまでの時間は短いですね。 
境内に入ると正面に清正公堂が、右側には本堂があります。
9時前でしたのでお寺さんの方々は甲斐甲斐しく準備に追われていました。
山門を入ってすぐ左手に毘沙門堂があります。
お稲荷さん 浄行さま 南無妙法蓮華経
清正公堂       有栖川宮熾仁親王の書かれた扁額「破魔軍」

港区指定有形文化財

建造物 清 正 公 堂 及 び 山 門

 覚林寺は弘化二年(1845)の大火で全焼し、山門は安政三年(1856)、清正公堂は
慶応元年(1865)に再建されたものです。
 清正公堂は拝殿・幣殿・本殿からなる権現造形式です。拝殿は間口三間奥行三間、
幣殿は間口一間奥行三間。本殿は土蔵作造で明治中期頃の再建と考えられますが、
伝統的な意匠をもちます。山門は覚林寺の表門で、木造・銅板葺の薬医門であり、
両側に脇戸が付きます。斗に皿斗が付くほかは装飾的要素の少ない簡素な門です。
 清正公堂は本殿部分を土蔵造とする権現造で、近世の建物構成を継承しています。
拝殿・幣殿は本格的な禅宗様形式を採用し、本殿も伝統的な意匠を引き継いでおり、
近世以来の技術を伝えるものとして高く評価されます。また山門は現在の境内において
最古の建築であり、同時期の建設になる清正公堂とともに、近世以来の境内の構成を
伝えている貴重な建造物です。

        平成十九年十月二十三日指定
                    港 区 教 育 委 員 会

 
  当山略縁起
 通称 白金の清正公さまと呼ばれる当山は 最正山覚林寺と号し寛永八年(1631)
可観院日延上人(韓国の王族)によって開創されたお寺であります
 開創と同時に上人によってご奉安申し上げられた清正公大尊儀は古く江戸時代より
開運の神さまとして霊験まことにあらたかで広く庶民大衆に崇敬されてまいりました
 毎年五月四日五日の両日に行われる清正公大祭には人生の苦悩に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与され東都における清正公信仰のみなもととして今もなお各界の参詣祈願者でにぎわいます
 ご神徳を仰ぎ謹んでご拝礼ください

一、新春開運祈祷    元旦より七日まで
一、山手七福神めぐり 元旦より七日まで
一、清正公大祭     五月四日・五日
                大祭両日のみ菖蒲の葉をさした御勝守が授与されます
                大祭両日は子供の日にちなんで午前十一時に
                「お子さま生育成就」のご祈祷が行われます
一、唱 題 会      毎月二十四日
                どなたでも参加できます
             最正山 清正公 覚林寺


毘沙門天

毘沙門天(びしゃもんてん、梵名: ヴァイシュラヴァナ、梵: वैश्रवण, VaiśravaṇaまたはvaizravaNa)は、
仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。
また四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、
独尊として信仰の対象となっており、様々な呼び方がある


日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、
独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。

庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。
鞍馬は北陸若狭と山陰丹波を京都と結ぶ交通の要衝でもあり古くから市が栄え、
自然と鞍馬寺の毘沙門天の本来の神格である財福の神という面が強まり、
また9世紀頃からは正月の追儺において、疫病を祓う役どころが
かつての方相氏から毘沙門天と竜天のコンビに変わっていったことから無病息災の神という一面が加わる。

平安時代末期にはエビスの本地仏ともされ、
日本では毘沙門天は甲冑をつけた姿が主流となるがこの姿はエビス神の古い形態でもあり、
このことは市場で祀られたことと関係がある。
こうして福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒にならぶ人気を誇るようになる。

室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、
江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる。
                   (Wikipediaより)



毘沙門天


七難を避け、七福を与える北方守護の神仏である毘沙門天は、仏教とそれを信じる人々を守る四天王の一人であり、
憤怒の相に唐の武人装束をまとい、左手に宝塔、右手に金剛棒(あるいは三叉戟:先が三つになった槍)を持ち、
二体の邪鬼を踏みつけている姿で表わされ、古くから武人たちの厚い信仰を得ている。


北方守護の神

毘沙門天のルーツは、インドの前期ヴェーダ時代(紀元前1500~紀元前1000頃)からの古い神で、
北の方角を守る神ヴァイシュラヴァナで、これが毘沙門天と訳されており、多聞天と呼ばれる場合もある。
また、吉祥天は毘沙門天の妻である。

インドでは四方を守る神がいて、北を守る毘沙門天のはかに、
東のドリタラーシュトラ(持国天)、西のビルーバクシャ(広目天)、南のビルーダカ(増長天)、
これらが仏教に取入れられて四天王と呼ばれるようになった。
 
仏教での四天王

仏教の世界観では、世界の中心には須弥山という山があり、そのまわりに九つの山と八つの海があるという。
須弥山の頂上にはインドラ(帝釈天)がおり、その配下として、須弥山の中腹で四天王が四方を守るという。
そこから、優れた部下四人を四天王と呼ぶようになった。
四天王の伝来は仏教の伝来とはぼ同時であるが、
平安時代になると、平安京を守るため都の北方に建てられた鞍馬寺に毘沙門天が祀られている。
また、毘沙門天を本尊とする寺院としては、
仏教擁護をめぐって蘇我・物部の争いで、
不利に陥った蘇我馬子と聖徳太子が信貴山に登って生身の毘沙門天像に祈願し、
勝利を得たあと太子が伽藍を建立し、自作の毘沙門天像を安置したと伝えられる信貴山真言宗の朝護孫子寺が有名である。
                    (寺社関連の豆知識より)


稲荷堂      狐さんの上に乗っているのがお稲荷さんでしょうか、初めて見ます。
清正公の絵馬 申年の絵馬 本堂の扁額「最正山」
清正公堂 9時を過ぎたのでご朱印を戴きます。 毘沙門だるま
権現造りの清正公堂
無縁塚 百度石 9時15分 山門を発ち、
目黒通りを西に進みました。