大黒天 松林山 大圓寺
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平成二十八年一月四日

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巡礼・お遍路へ 七福神巡りへ 江戸最初山手七福神




松林山 大圓寺

天台宗



縁起

大圓寺は寛永年間に湯殿山の大海法印が行人坂を切り開いて創建したと伝えられています。
大圓寺の三面大黒天像は、山手七福神の大黒天となっています。

御朱印



目黒区教育委員会掲示による大圓寺の縁起

この寺は「松林山大圓寺」といいます。寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切り開き、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりであると伝えられています。
本寺には”生身の釈迦如来”と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)、「木造十一面観音立像」(区指定文化財)、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。
明和9年2月(1772)、本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大圓寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。
また阿弥陀堂には「木造阿弥陀如来三尊像」(区指定文化財)や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。
境内には「行人坂敷石石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。
江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。
              (目黒区教育委員会掲示より)



新編武蔵風土記稿による大圓寺の縁起

(下目黒村)大圓寺
年貢地千六百六十二坪、明王院の隣なり、天台宗行人羽黒派にて浅草正徳院の末、松葉山と號す、開山権大僧都法印大海正保三年十月廿九日寂し、第七世中興開山権僧都亮佑明和八年八月朔日寂す、同九年二月當寺失火し延焼して江戸中に及び、剰御城中御櫓もこの災にかかりしゆへ、御咎を蒙り本堂再建のことを許されず、本尊大日如来及び過去帳以下隣寺明王院に収む、境内の地には五百羅漢の石像をたててあり、この火災の爲に命をおとせしものゝ爲に後人營みしと云。
             (新編武蔵風土記稿より)



妙円寺より目黒通りに出ると道路工事が行われていました。      向かいは自然教育園でしょうか。
ここにも立派な門松が立っていました。 首都高速2号目黒線
目黒駅前郵便局 目黒なのに品川区の表示です。 交差点を渡ります。
福寿草が¥3,500いい値段していますね。  昔は一芽100円でしたが、いつの間にか一芽700円ですか。   アトレ
JR目黒駅(東口)
改札口です。
以前、都研に行くのによく使いましたね。
開運大黒天 大圓寺に行くには
現在地(JR目黒駅西口)から権之助坂の通りを越えて行人坂を行けばよさそうです。
交差点を渡ります。 権之助坂商店街ですが、お店はあまりありそうにもありません。
行人坂を降りて行きます。
坂は急ですね。

行 人 坂 
(ぎょうにんざか)


 寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人がこのあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。しだいに多くの行人が住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。
     
   平成11年11月  目黒区教育委員会

 

               目黒川架橋供養勢至菩薩石像
(区指定文化財)
                                   大円寺境内


 下から台座(97cm)、蓮座(20cm)、頭上に宝瓶のついた宝冠をかぶり、両手合掌、半跏趺坐の勢至菩薩像(52cm)の3段になっています。
台座の前面と両側面に、江戸中期における目黒川架橋のことを語る銘文が刻まれています。
 銘文によると、宝永元年(1704)に西運という僧が目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中江戸市民の報謝をうけ、両岸に石壁を築いて、雁歯橋を架けたことがわかります。
 目黒川架橋の史実を物語る貴重な資料です。
                                               平成3年3月

                                            目黒区教育委員会
こちらの仏様はちょっと分かりません。 扁額「勢至菩薩」 お顔が見えないですね。
大圓寺の新しい山門です。 扁額「松林山」 江戸城裏鬼門守護 開運出世
大黒天  奉安
以前の大圓寺の様子(yahoo blogより)
史跡指定文化財
国宝 生身釋迦如来

五百羅漢石仏群
奉安
七福神の幟 江戸城奥鬼門守護
開運出世
大 黒 天

                                   東京都指定有形文化財(歴史資料)
                      大圓寺石仏群
                                                  所在地  目黒区下目黒一丁目八番五号
                                                  指 定   昭和四五年八月三日

 明和九年(1772)、江戸市中を焼く大火があり、火元と見られたのが大圓寺であった。この火事は「行人坂の火事」と呼ばれ、
明暦三年(1657)の振袖火事、文化三年(1806)の車町の火事と並び、江戸三大火事の一つに教えられている。
『新編武蔵風土記稿』には、大圓寺境内の五百羅漢は行人坂の火事で亡くなった人々を供養するために建立されたと記されている。
 大圓寺境内の北東側斜面に、五二○躯の石仏群が安置されている。
左右に文殊菩薩・普賢菩薩を配した釈迦三尊像を十大弟子と十六羅漢が囲み、背後に四九一基の羅漢像が並ぶ。
造立年代は、五百羅漢の中に宝暦十三年(1763)の刻銘もあるが、多くは釈迦如来の刻銘天明元年(1763)以降の造立と思われる。
嘉永元年(1848)に大圓寺が再興された時、これらの石仏もここに安置されたと考えられる。
 像高は、釈迦三尊像が147~155cm、十大弟子像が55~126cm、十六羅漢が95cm、五百羅漢像が37cm前後。
判読できる銘文によると、行人坂の火事以外の供養も含まれているようである。
また、広く勧進を募り、時間をかけて今の石仏群が作られたことも読み取れる。
江戸災害史の貴重な資料である。
                        平成二三年三月 建設   
東京都教育委員会


振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火の一つである明和九年(1772年)の行人坂火事は、この大圓寺が火元といわれている。
同寺から出た火は、折からの強風により、たちまち白金から神田、湯島、下谷、浅草までを焼き尽くす大火となった。
特に城中のやぐらまでも延焼したので、大圓寺は以後76年間も再建を許されなかった。




行人坂火事延焼図 
(目黒区月刊めぐろ 歴史を訪ねてより)


五百羅漢石仏群
都郷土資料 大圓寺石仏群
                釈迦如来立像

                           (国指定重要文化財)
京都清涼寺の釈迦如来像の模刻、鎌倉時代には、釈迦信仰の復古的な高潮によって盛んに作られました。
大圓寺の釈迦如来像は、胎内から鏡や結縁者戒名等を記した紙片・女性の髪・木札などが発見され、鏡には「建久四年舟治氏乙犬丸」の線刻銘があり鎌倉大仏を鋳た舟治氏と同姓の工人の名が記されています。
年代の明らかな清涼寺式釈迦像の中でも建久四年(1192)は最も古い釈迦像です。
生身の釈迦像として、像の胎内に人間の胎内にあるのと同様の五臓が絹や錦の布で作られ、
文書や経巻、宝玉などとともに納められています。


仏足石 国寳 生身の釈迦如来 堂内

              ●
清涼寺式釈迦如来立像
 この仏像は、永観元年(983)南都東大寺の学僧奝然が宋の商人陳仁夾らの船に乗って宋国に渡り、山西省の五台山に登ってそこの清涼寺で、天竺から伝来した釈迦像を拝した。
奝然はその美しい姿に胸を打たれて、模刻を日本に持って帰りたいと訴えた。
その願望は受け入れられ、杭州まで像を移し、名工張延皎・張廷襲兄弟に依頼、一年半掛けて模刻仏を作って貰った。
別には台州で模刻した優填王(うでんおう)所造の栴檀釈迦像を貰って帰朝という説もある。 
寛和二年(986)または永延元年(987)京都西北の愛宕山を中国の五台山に見立てて、ここに伽藍を建て大清涼寺と号することを奏請したが実現せず、長和五年(1016)に没した。
そこで弟子の盛算は、愛宕山麓にある浄土宗棲霞寺内の釈迦堂に奝然請来の栴構釈迦像を安置して「清涼寺」と号することを勅許された。
棲霞寺に仮寓した清涼寺は、この釈迦像が三国伝来の霊像であり、また生身の如来でもあるとの信仰が高揚するに伴い次第に大きくなり、棲霞寺とその立場が入れ替わった。
平安時代末から、生身如来から霊験を受けようとする多数の参詣・参籠者で娠わい、また浄土教の発展と相まって嵯峨近辺に隠遁する聖たちの宗教活動の拠点ともなった。
 この釈迦像はその美しいことが全国的に轟き渡って、盛んに模刻仏が地方の寺に安置されるようになった。
全国で80体以上といわれているが、東京周辺だけで8体が確認されている。
大圓寺の釈迦如来像は、昭和34年に解体修理したとき胎内から出た品々より、建久四年(1193)彫刻奉納、祈願者は丹治乙犬女だと判った。
                                 (目黒区地名の由来より)

        大圓寺本尊
    国重要文化財指定(旧国宝)
     生身
釋迦如来 ご開帳
○大晦日  12月31日
○正 月   1月1日~1月7日
○降誕会(花祭り) 4月8日
○江戸城裏鬼門守護大黒天ご縁日甲子祭り
○東京都文化財ウィークディ期間  
とろけ地蔵

江戸時代に品川沖で漁師の網にかかって出現したものとのことです。
ご利益は、「悩みをとろけさせ、解消してくれる」と言われている有難いお地蔵様です。
摩尼車(まにぐるま)
摩尼とは、仏心・菩提心・佛法の宝あるいは、お経の意で、
みずからの濁った心を澄ましめ災いを去らせる徳があるとされます
一回まわすとお経を一編となえたことになります
心をこめてまわしましょう   合掌
     
  大圓寺の指定文化財

○鎌倉時代(国重文)
 ・生身の釈迦如来立像(一躰)
 ・白銅菊花双雀鏡(一面)
 ・結縁交名断簡(三片)
○江戸時代(都重文)
 ・石佛群五百羅漢像(五二四躰)
○江戸時代(区重文)
 ・行人坂敷石造道供養碑(一基)
 ・阿弥陀三尊像(三躰)
 ・目黒川架橋供養勢至菩薩像(一躰)
○藤原時代(区重文)
 ・十一面観音立像(一躰)
●八百屋お七、吉三の墓碑 
●江戸裏鬼門守護開運大黒天
●新東京百景指定(東京都指定) 
  
七福神

福禄寿尊、寿老人尊、毘沙門天、恵比寿神、大黒天、弁財天、布袋尊

 八百屋お七の恋人吉三はその後名を西運と
改めお七の菩提を弔うため江戸市民から寄進された浄財を基に行人坂の石畳、太鼓橋を石の橋にした


      八百屋お七と吉三(西運) 

江戸時代本郷の八百屋の娘お七は天和二年
(1682)の火事の際、自宅を焼かれしばらくの間駒込の円林寺に仮住いしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。
お七が十六才、吉三が十八才でした。
恋こがれたお七は、吉三に会いたい一心で翌年自分の家に放火したために、江戸市中を引廻しの上、鈴ヶ森の処刑場で火刑に処せられた。
その後、一方の主人公「寺小姓吉三」はお七の処刑後、僧となリ名を「西運」と改め諸国を行脚後に大圓寺の下の明王院(現雅叙園)に入ってお七の菩提を弔うため往復十里(約四十キロ)の道のりを浅草観音まで夜から明け方にかけて鉦を叩き念仏を唱え、隔夜日参り一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げ、お七が夢枕に立って成仏した事を告げられたことから「お七地蔵尊」を造った。
又、西運は多くの江戸市民から浄財の寄進を受け、これを基金に行人坂に敷石の道を造り、目黒川に石の太鼓橋を架け社会事業の数々を行った。

金箔が貼られた薬師如来
お身体の悪い箇所に
(御真言をお唱え頂きながら)
金箔を薬師如来へお貼りしご祈願ください
※薬師如来御真言
(オンコロコロ センダリ マトウギソワカ)
薬師如来
すべての人達への邪悪の退散と
病の平癒を願って
ご真言 おんころころせんだりまとうぎそわか

孫民将来子孫家門
七福即生
七難即滅



「笑門」と書かれたものは「蘇民将来子孫家門」を略して「将門」、
これが平将門に通じるのを嫌って「笑う門には福来る」という語呂合わせから「笑門」となったともいわれています。

「七難即滅 七福即生」は、仁王経に説かれている経文で、「あまたの災難はたちまち消滅し、多くの福徳に転ずる」 という
転禍為福の考えから七福神への信仰が生まれたのです。

即ち、世の中の七つの大難はたちどころに消滅し、七つの福が生まれるということ。
つまり「難を滅ぼし福を呼ぶ」という意味です。

七難とは?  太陽の異変、星の異変、風害、水害、火災、旱害、盗難

七福とは?  寿命、有福、人望、清簾、威光、愛敬、大量

                             
                                     
 薬 師 如 来
 
 薬師如来が説かれている代表的な経典は、永徽元年(650年)の玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(薬師経)と、景竜元年(707年)の義浄訳『薬師瑠璃光七佛本願功徳経』(七仏薬師経)であるが、そのほかに建武~永昌年間(317~322年)の帛尸梨密多羅訳、大明元年(457年)の慧簡訳、大業11年(615年)の達磨笈多訳が知られている。

 薬師本願功徳経では、薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも称される)の教主で、菩薩の時に12の大願を発し、この世門における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成ったと説かれる。
 瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされている。
 無明の病を直す法薬を与える医薬の仏として、如来には珍しく現世利益信仰を集める。

 密教との関係

 密教経典としては「薬師瑠璃光如来消災除難念誦儀軌」「薬師七仏供養儀軌如意王経」等がある。

 薬師経に説かれていることから、真言宗(東密)では顕教系の如来とされ、本来あまり重視されない。
ただし、「覚禅抄(東密)」において胎蔵大日如来と同体と説かれている。
雑密系の別尊曼荼羅では中尊となる事も多いが、純密の両界曼荼羅にはみられない。

 一方で伝統的に皇室と結びつきが強かった天台宗(台密)では、薬師如来が東方浄瑠璃世界の教主であることから、東の国の帝たる天皇と結び付けられもした。
 「阿裟縛抄(台密)」で釈迦如来・大日如来と一体とされているが、顕教での妙法蓮華経に説かれる久遠実成の釈迦如来=密教の大日如来との解釈と、釈迦如来の衆生救済の姿という二つの見方による。

 東方の如来という事から五智如来の阿閦如来とも同一視される。

 チベット仏教(蔵密)でもよく信仰されており、しばしばチベット僧により日本でも灌頂(かんちょう)が執り行われる。


 像容

 像容は、立像・坐像ともにあり、印相は右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やっこ)を持つのが通例である。
ただし、日本での造像例を見ると、奈良・薬師寺金堂像、奈良・唐招提寺金堂像のように、古代の像では薬壷を持たないものも多い。
これは、不空訳「薬師如来念誦儀軌」の伝来以降に薬壷を持つ像が造られるようになったと考えられている。
単独像として祀られる場合と、日光菩薩・月光菩薩を脇侍とした薬師三尊像として安置される場合がある。
また、眷属として十二神将像をともに安置することが多い。
薬師如来の光背には、七体または六体、もしくは七体の同じ大きさの像容がある。
これは七仏薬師といって薬師如来とその化身仏とされる。

 薬師如来の縁日は毎月8日である。
これは、薬師如来の徳を講讃する「薬師講」に由来すると考えられている。

 国分寺のほとんどは現在は薬師如来を本尊としている。

 十二誓願
   1.光明普照(自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く。)
   2.随意成弁(仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる。)
   3.施無尽仏(仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す。)
   4.安心大乗(世の外道を正し、衆生を仏道へと導く。)
   5.具戒清浄(戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける。)
   6.諸根具足(生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒やす。)
   7.除病安楽(困窮や苦悩を除き払えるよう援ける。)
   8.転女得仏(成仏するために男性への転生を望む女性を援ける[4]。)
   9.安心正見(一切の精神的苦痛や煩悩を浄化できるよう援ける。)
  10.苦悩解脱(重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける。)
  11.飲食安楽(著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く。)
  12.美衣満足(困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す。)


 七仏薬師

 義浄訳「薬師瑠璃光七仏本願功徳経(七仏薬師経)」や達磨笈多訳「薬師如来本願経」では、薬師如来を主体とした七尊の仏の本願と仏国土が説かれる。
 天台密教では、円仁から始まったとされる七仏薬師法が息災・安産をもたらすとして重要視され、8-9世紀には藤原摂関家で同法による安産祈願が行われた。 

  ・善名称吉祥王如来(ぜんみょうしょうきちじょうおうにょらい)
  ・宝月智厳光音自在王如来(ほうがつちごんこうおんじざいおうにょらい )
  ・金色宝光妙行成就王如来 (こんじきほうこうみょうぎょうじょうじゅおうにょらい )
  ・無憂最勝吉祥王如来 (むうさいしょうきちじょうおうにょらい )
  ・法海雲雷音如来 (ほうかいうんらいおんにょらい )
  ・法海勝慧遊戯神通如来 (ほうかいしょうえゆげじんつうにょらい )
  ・薬師瑠璃光如来 (やくしるりこうにょらい )


 
日本における造像例

 現世利益的信仰が有力な日本においては、薬師如来は病気平癒などを祈願しての造像例が多い。
極楽往生を約束する仏である阿弥陀如来とともに、日本においてはもっとも信仰されてきた如来である。
奈良・法隆寺金堂の薬師如来坐像は光背に推古天皇15年(607年)の銘があるが、銘文中の用語や像自体の鋳造技法等から、実際の制作は7世紀後半と言われている。
 また、現世利益を司る数少ない如来であることから、延暦寺、神護寺、東寺、寛永寺のような典型的な(国家護持の祈りを担う)密教寺院においても薬師如来を本尊とするところが多い。


 
国宝指定の薬師如来像

 日本における造像例は多数あり、網羅不可能であるため、ここでは国宝指定像を挙げるにとどめる。
  福島・勝常寺像(薬師三尊の中尊、坐像、平安時代前期)
  京都・仁和寺(旧北院)像(坐像、平安時代)
  京都・神護寺像(立像、平安時代初期)
  京都・醍醐寺(上醍醐)薬師堂像(薬師三尊の中尊、坐像、平安時代前期)
  大阪・獅子窟寺像(坐像、平安時代前期)
  奈良・法隆寺金堂像(坐像、飛鳥~奈良時代)
  奈良・法隆寺大講堂像(薬師三尊の中尊、坐像、平安時代中期)
  奈良・唐招提寺金堂像(立像、奈良時代~平安時代初期)
  奈良・薬師寺像(薬師三尊の中尊、坐像、奈良時代)
  奈良・新薬師寺像(坐像、平安時代初期)
  奈良国立博物館像(坐像、平安時代前期)
  奈良・元興寺(奈良市芝新屋町)像(立像、平安時代前期)

東照権現信仰

 江戸時代に初代将軍徳川家康が神格化されて神君と呼ばれるようになった。
当時徳川将軍家のブレーンであった天海大僧正などの働きもあり、朝廷より徳川家康に「東照大権現」の神号が下され、天台宗系の山王一実神道によって日光東照宮に祭祀された。
この東照権現信仰では薬師如来を本地とした。

 また、徳川家康は生母於大の方が鳳来寺(愛知県新城市)の本尊の薬師如来に祈願して誕生したと言われ、家康は薬師如来が人間界に現れたものとも言われる。
                            (Wikipediaより)

西運(吉三)發願本尊 阿弥陀堂  扁額「「無量壽」

                                     木造 
阿弥陀三尊像
                                                               目黒区指定有形文化財      彫刻
                                                               昭和五十九年三月三十一日   指定
 中尊阿弥陀如来像は来迎印を結び、左足を垂下した半跏の姿、観音像は蓮台をもち左膝を立て、勢至像は合掌し右膝を立てた典型的な来迎形の阿弥陀三尊像であるが中尊が半跏座の姿をとる例は少なく珍しい三尊形式である。
 三尊とも江戸時代の典型的な作風を示し江戸時代の仏像がいずれも小じんまりとしているのに対し気宇広大な特色をもっている。

 また、両脇侍像蓮台の木札に明和七年(1770年)大仏師桃水伊三郎等の銘があることも貴重である。
    昭和五十九年八月
                                
東京都目黒区教育委員会

阿弥陀三尊像
六地蔵 観音様
観音様 鐘楼 鐘楼堂
ここで御朱印をいただきました。 目黒川の太鼓橋に使用された石材 大黒天堂

江戸裏鬼門守護
開運出世 
大 黒 天 
除災招福 商売繁盛 厄除祈願
初 
甲 子 祭 きのえねさい
大護摩供
2月12日(金曜日)

大護摩祈願 午前十時 午後一時・三時


十一面観音菩薩立像の前の開運出世大黒天

開運出世大黒天

大圓寺 開運出世大黒天

ここ天台宗の大圓寺にも開運出世大黒天が祀られています。
開運出世大黒天は三面大黒天であり、大黒天と毘沙門と弁財天が一体になったお姿です。



「比叡山三面大黒天縁起」 比叡山延暦寺 大黒堂
 
千二百年の昔、当山開祖 伝教大師 最澄上人が根本中堂ご創建の折、一人の仙人が現れましたので、大師は「あなたは どなたですか、そして何しに来られましたか」と尋ねられると、その仙人は「普利衆生、皆令離苦、得安穏世間之楽及涅槃楽」と法華経のご文を唱えて答えられました。

(縁起)
これを聞いた大師は「それなら修行する多くの僧侶達の食生活と健康管理のため、比叡山の経済を守ってください」と申しますと、仙人は「毎日三千人の人々の食料を準備しましょう。それから私を拝むものには福徳と寿命を与えます」と約束されましたので、大師は「この人こそ三面大黒天に違いない」と思い、早速身を浄め、一刀参拝して尊像を彫み、安置されたのがこの三面大黒天であります。

(縁起)
その後、豊臣秀吉がこの三面大黒天に出世を願い遂に豊太閤となったことから三面大黒天と尊称され、福徳延寿をお授けになる大黒天として、
自他安楽の道を願う人々の信仰を受け続けております。


合掌



 
三面大黒天は、正しくは三面六臂大黒天といい、日本で初めての三面を持った尊天です。比叡山の三面六臂大黒天は左手に願いを叶える如意宝珠を持ち、右手には煩悩を断ち切る智慧の利剣をもっています。右面の弁財天の左手には福を集める鎌、右手には福を与える宝鍵を持っています。左面の毘沙門天の左手には七財を自在に施す如意棒、右手には降魔の鎗を持っています。時代の変遷で、その形は変化をしてきました。
                                                                 (blog地球のしずくより)
大黒天 扁額「大黒天」
          
          大圓寺
(天台宗)
                        下目黒1-8-5
 この寺は「松林山大圓寺」といいます。
 寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切りひらき、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりと伝えられています。本寺には、”生身の釈迦如来”と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)、木造「十一面観音立像」(区指定文化財)、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。
 明和9年2月(1772)、本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた「釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大圓寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀三尊像」(区指定文化財)や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。
 境内には「行人坂敷石造道供養碑」(区指定文化財)「目黒川架橋供養勢至菩薩」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。
 江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。
                                                   平成3年3月
          
                        目黒区教育委員会

    
     木造 
十一面観音立像
          目黒区指定有形文化財 彫刻
       昭和五十九年三月三十一日 指定
 この像は一木彫刻で、表面がかなりやつれ、面相も衣文線も制作当初の鋭い彫りの調子を失っているが、造法も作風も古様を伝えている。
やや面長な面相、伏眼がちの眼の表現、細身で長身な体躯等いずれも藤原時代の特色を示し、区内の彫刻の中では最も古い遺品の一つと推定される貴重なものである。
      昭和五十九年八月
      
東京都目黒区教育委員会

江戸城裏鬼門守護
開運 出世
大 黒 天
平成二十七年

大圓寺開創四百年慶讃 山門大改修功徳者
 
江戸最初山手七福神
大 黒 天

松林山 
大 圓 寺 
(大黒寺)
山門 扁額「松林山」 江戸最初 山手七福神 開運 大黒天
10時38分 山門から出て坂を下ると、隣は広大な雅叙園です。 その一角にお七の井戸があります。
      目黒 雅叙園 「お七の井戸」

八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。
吉三はお七の火刑後僧侶となり名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行を成し遂げた。
明王院という寺院は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園にかけ明治13年頃まであった。
この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。