恵比寿尊 泰叡山 瀧泉寺
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平成二十八年一月四日

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巡礼・お遍路へ 七福神巡りへ 江戸最初山手七福神



泰叡山 瀧泉寺


天台宗
 天台宗寺院の目黒不動瀧泉寺は、泰叡山と号します。
 瀧泉寺は大同三年(808)に慈覚大師が開創したと伝えられ、関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、成田山新勝寺の成田不動尊と併せて日本三大不動の一つに上げられます。
 江戸時代には三代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の保護を受け、江戸五色不動の目黒不動、江戸の三富(当寺と、湯島天神、谷中感應寺[現天王寺])の一つに数えられたといいます。
御朱印
御本尊御朱印



縁起

目黒不動尊は、天台座主第三祖慈覚大師圓仁が開かれた関東最古の不動霊場です。

日本最古の土板(縄文時代)が発掘された境内は、往古より霊域であります。

大同三年、十五歳の慈覚大師は、伝教大師最澄のもとへ赴く途上、当地に立寄られ、霊夢を見ました。
面色青黒く右手に降魔の剣を提げ左手に縛の縄を持つ誠に恐ろしい形相の神人が枕上に現れて『我この地に迹を垂れ魔を伏し国を鎮めんと思ふなり。来つて我を渇仰せん者には諸々の願ひを成就させん。』と告げられました。
夢覚めた後その尊容を自ら彫刻されたのが、御本尊目黒不動明王です。

堂宇建立を決意された大師が、法具の獨鈷を投じると、そこに泉が湧出。「獨鈷の瀧」と名づけられたこの霊泉に因んで、当山を「瀧泉寺」と号されました。
貞観二年には清和天皇より「泰叡」の勅額を賜り、爾来「泰叡山」と称します。

寛永年間には、徳川家光公の帰依を受け、堂塔伽藍が復興されました。
目黒で鷹狩りをした際、愛鷹が行方しれずになり、三代将軍は自ら目黒不動尊御宝前に額づき、祈願。すると忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰りました。
この霊験を目の当りにした家光公は瀧泉寺を篤く尊信することとなり、大願成就の報恩に、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍を造立します。
歴代の将軍が折々に参詣する宏壮な堂塔は『目黒御殿』と称され、庶民も列を成して詣でる江戸随一の名所となりました。

青史に名をとどめる傑士が多く参堂し、さつまいもの栽培を広めた「甘藷先生」こと蘭学者・青木昆陽が当山の墓地に眠り、毎年10月28日には先生の遺徳を偲ぶ『甘藷まつり』が開かれます。
二宮尊徳は報徳仕法の成功を祈誓し、西郷隆盛は主君島津斉彬公の当病平癒のために日参。東郷元師は日本海海戦の勝利を立願しました。
その所願は円満成就し、いよいよ不動尊信仰は隆昌を極めました。

開創以来千二百餘年を閲する今日も変ることなく、鎮護国家並びに萬民豊楽を祈念して、護摩供が毎日厳修され、毎月28日の目黒不動尊大縁日には、門前や境内に露店が並び、多くの参拝者が訪れます。

 寺伝では、大同三年(808)円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建したという。
東国には円仁開基の伝承をもつ寺院が多く、本寺の草創縁起もどこまで史実を伝えるものか不明である。貞観2年(860)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜され、山号を泰叡山とした。
元和元年(1615)本堂が火災で焼失した。
寛永7年(1630)寛永寺の子院・護国院の末寺となり、天海大僧正の弟子・生順大僧正が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受けて、寛永11年(1634)50棟余におよぶ伽藍が復興し、「目黒御殿」と称されるほど華麗を極めた。
文化9年(1812)「江戸の三富」と呼ばれた「富くじ」が行われた(他は湯島天満宮、谷中感応寺)。
富くじ興行は天保13年(1842)天保の改革により中止となった。
寺名の由来となった、境内の独鈷の滝(とっこのたき)を浴びると病気が治癒するとの信仰があった。 江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれ、江戸名所図会にも描かれている。
また、落語の目黒のさんまは、この近辺にあった参詣者の休息のための茶屋(爺が茶屋)が舞台だとされる。 江戸時代には大いに栄え、門前町が発達した。
 門前町の名物として、当時目黒の名産品であった竹の子(江戸後期に薩摩藩より移植したものが商品作物として普及)を使った竹の子飯と棒状に伸ばした練飴(白玉飴)を包丁でトントン切っていく目黒飴が人気であった。
また、餅花という細い竹にしんこ餅を付けた物や粟餅などもあったという。
江戸名所図会にはこの目黒飴屋の風景が載っていて、図会に載っている絵では従業員が10人近くみられる大店であったことがうかがえる。


 目黒不動尊は、天台座主第三祖慈覚大師圓仁が開かれた関東最古の不動霊場です。

日本最古の土板(縄文時代)が発掘された境内は、往古より霊域であります。
大同三年、十五歳の慈覚大師は、伝教大師最澄のもとへ赴く途上、当地に立寄られ、霊夢を見ました。
面色青黒く右手に降魔の剣を提げ左手に縛の縄を持つ誠に恐ろしい形相の神人が枕上に現れて『我この地に迹を垂れ魔を伏し国を鎮めんと思ふなり。来つて我を渇仰せん者には諸々の願ひを成就させん。』と告げられました。
夢覚めた後その尊容を自ら彫刻されたのが、御本尊目黒不動明王です。

堂宇建立を決意された大師が、法具の獨鈷を投じると、そこに泉が湧出。「獨鈷の瀧」と名づけられたこの霊泉に因んで、当山を「瀧泉寺」と号されました。
貞観二年には清和天皇より「泰叡」の勅額を賜り、爾来「泰叡山」と称します。

寛永年間には、徳川家光公の帰依を受け、堂塔伽藍が復興されました。
目黒で鷹狩りをした際、愛鷹が行方しれずになり、三代将軍は自ら目黒不動尊御宝前に額づき、祈願。すると忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰りました。
この霊験を目の当りにした家光公は瀧泉寺を篤く尊信することとなり、大願成就の報恩に、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍を造立します。
歴代の将軍が折々に参詣する宏壮な堂塔は『目黒御殿』と称され、庶民も列を成して詣でる江戸随一の名所となりました。

青史に名をとどめる傑士が多く参堂し、さつまいもの栽培を広めた「甘藷先生」こと蘭学者・青木昆陽
が当山の墓地に眠り、毎年10月28日には先生の遺徳を偲ぶ『甘藷まつり』が開かれます。
二宮尊徳は報徳仕法の成功を祈誓し、西郷隆盛は主君島津斉彬公の当病平癒のために日参。東郷元師は
日本海海戦の勝利を立願しました。
その所願は円満成就し、いよいよ不動尊信仰は隆昌を極めました。

開創以来千二百餘年を閲する今日も変ることなく、鎮護国家並びに萬民豊楽を祈念して、護摩供が毎日厳修され、毎月28日の目黒不動尊大縁日には、門前や境内に露店が並び、多くの参拝者が訪れます。


目黒不動尊への案内がありましたのでそれに従って坂を上がりました。
ここからは入れませんでしたので右の方に行きましたら門が開いていたのでそこから入りました。
本堂でお参りを済ませましたので石段を下りて本堂の右手に回りました。
慈眼視衆生 微笑観世音菩薩 愛染明王
                                       
                         縁結び 愛染明王

                                     (良縁成就 お参りの仕方)
                          1.愛染明王の台座前で、
                            絵馬を両手にはさみ、胸元で合掌する。
                            (心の中で「なむ あいぜんみょうおう」とお唱えする)
                          2.男 右側より反時計回りに心静めてまわる
                            女 左側より 時計回りに心静めてまわる
                          3.愛染明王の前に戻ったら、一礼をする
                            (心の中で「なむ あいぜんみょうおう りょうえんじょうじゅ」とお唱えする)
                            絵馬かけに、絵馬を奉納する
                            ご縁は一人の相手に限らず
                            すべての人との間に成り立っています。

                            周りにいる皆と良縁で結ばれ、調和するように
                            広く深い慈愛の心でお願いをします。

                            より深く大地につながりたい方は履物をぬいで
                            一歩をしっかりと踏みしめて、おまわりください。

延命地蔵菩薩 護衛不動尊 鐘楼

                    銅造役の行者倚像
                                                      区指定文化財(昭和59年3月31日指定)
                                                                   下目黒3−20−26
 役の行者(役小角ともいう)は奈良時代の山岳修行者で、修験道の祖として崇拝されている人物です。
この像は寛政8年(1796)の作で、総高142.2cm、座高92.7cmです。
やや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなどもとても巧みで江戸時代の銅像彫刻として優れた遺品の一つです。
 表面は黒光りしており、これは鋳工の間でカラス銅と称される銅色です。頭巾を山高にかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手には錫杖を、左手には巻子を持っています。
 また、像の腹部、胸部、腕部等に刻銘があり、そこから願主の名や神田に住んでいた鋳工太田駿河守藤原正義の制作であることが分かります。
                                                                       平成21年3月
                                                目黒区教育委員会

石鎚山開祖 役行者 四国別格第九番 遍路開祖衛門三郎 文殊院別院
平成23年4月29日 お遍路石鎚神社頂上社をお詣りした麓にありました。


役行者倚像(奈良 大峯山寺)

蔵王権現像(吉野町 善福寺)

 「役行者と修験道」をとりまく背景

          役行者と葛城修験(1).修験道の盛衰」より抜粋
 
 奈良時代の仏教は、国家仏教として七堂伽藍(しちどうがらん)のなかで政府の保護を受ける学問僧と、日本古来の山岳信仰が外来の道教や仏教の影響を受け、山岳修行により超自然の獲得に努める私度僧(しどそう)があった。
 役行者もそ の一人で、その呪術的な力を民衆に示し、自由に布教活動を行い、次第に勢力を増していった。
そのため、僧尼令(そう にれい)等による規制もあったが、途絶えることなく平安時代の密教に継承され、新たな展開をとげた。
 天台・真言両宗の密教が比叡山・高野山を開き、山岳修行を奨励したことから金剛・葛城、吉野・大峯・熊野などの各地の霊山に修験者が自らの験力(げんりき)を高めるために入峯(にゅうぶ)した。
このような山岳宗教の隆盛にともなっ て、役行者を修験道の開祖として仰ぐようになった。
葛城修験が大峯修験とともに最盛期を迎えた鎌倉時代前後頃になって、修験道は組織化され、天台系の本山派と真言宗の 当山派とに分かれた。

熊野は寛治四年(1090)に園城寺の僧増誉が白河上皇の熊野御幸の先達を努めたことにより、園城 寺に属し、園城寺あるいは上皇から賜った聖護院(しょうごいん)を本拠とした。
これが本山派であり、天台系で役行者 を開祖と仰いだ。
それに対して、吉野から大峯山にかけては、興福寺などの後盾のもとに、大和を中心とする三十六ケ寺 で組織された当山三十六先達があり、室町時代になると真言宗の醍醐寺三宝院を本拠として当山派と称し、聖宝(しょう ほう)を開祖と仰いだ。
また、全国各地の霊山においても組織化がおこってきたが、大和中南部の金剛・葛城、吉野・大 峯・熊野は他地方とは一線を画しており、修験道の中枢であった。

 また、中世には葛城を顕(けん)の峰(密教以外の仏教)、大峯を密(みつ)の峰(密教)と呼び、金剛・葛城の峰中、 神霊が籠もる28の地に「法華経」28品を1巻ずつ埋納する経塚が祀られた。
この経塚は和歌山県紀淡海峡の友ケ島を 起点に、和泉山脈、金剛山脈を北上し、金剛山、葛城山、二上山、逢坂を経て明神山北麓の亀の瀬まで続いた。
この28 の経塚をひとつながりの行場として葛城修験は形成された。
なお、大峯修験は75の靡(なびき)と宿(しゅく)を祀った。
本山派は法華の峯として葛城修行を重視し、大峯修行と は別に集団で入峯し、当山派は大峯修行の後で葛城修行をおこなった。
葛城28宿の名称や位置は資料によって相違が見られるが、「葛嶺雑記」(かつれいざっき:嘉永三年=1850刊)を基本に、聖護院等の調査によってほぼ確認されている。
現在、聖護院により28宿の行場を廻る葛城修験が復興されている。
近世になると、山岳で起居していた修験者達は、全国各地を遊行(ゆぎょう)し、寺社のまつりで護摩をたき、雨乞いや 病気平癒の加持祈祷をおこなった。
また、円空や木喰明満のように、自らの修行として作仏するものもあった。

 中期以降 は、庶民が講(こう)をつくり、各地の霊山に登って修行するようになっていった。

 近代に入って、明治の神仏分離令、修験道廃止令によって本派本山に戻って天台・真言両宗に帰入するように命じられ、 本山派、当山派ともそれぞれに天台宗・真言宗に包括された。

 第二次大戦後は、宗教法人法の試行により、本山派の聖護 院は修験宗(現本山修験宗)、当山派の真言宗醍醐派など、多くの修験集団が独立した。

役の行者半跏像
檀特山小松寺所蔵
(鎌倉時代前期)


 役小角(えんのおづぬ)は、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれ、修験道の開祖として尊崇される人物である。
寛政11年(1799年)には朝廷から「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の号を贈られている。
実在した人物であるが、役小角について史料に記されている内容はわずかであり、その生涯の殆どが伝説のなかで伝えられている。

国史上の確かな記録とされる『続日本紀』文武天皇三年(699年)五月二十四日の条には次のように記されている。

 “役君小角が伊豆島に配流されたことを伝える。
はじめ小角は葛城山に住み、呪術をよく使うので有名であった。
外従五位下韓国連広足(からくにのむらじひろたり)は小角を師として仰いでいたが、
後にその能力をねたみ、小角が妖術を使って世人を惑わしていると朝廷に讒訴(ざんそ)したため、伊豆に流罪になった。
小角は鬼神を使役して水を汲み薪を採らせ、命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。”

 以降、この『続日本紀』を基本とした役小角(役行者)の伝説が、各時代ごとに様々な書物や絵巻に描かれていく。
役小角とはどのような人物だったのであろうか。


 役小角は、634年に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。
父は出雲の国の高賀茂問賀介麿(まかげまろ)、母は賀茂役氏の娘 白専女(しらとうめ)である。
小角は、幼少の頃から博学で、梵字を書いたり拝んだりしていた。
まわりの子らとは遊ばず、泥や土で仏像を作り、草の茎でお堂や塔を建て、花や水をそなえて礼拝していたという。

 17歳になると元興寺(現在の飛鳥寺)で学ぶ。
やがて、葛城山で山林修行に入り、さらに、熊野や大峰の山々で修行を重ねる。
箕面(みのお)山の大滝で、龍樹菩薩から秘法を授けられ悟りを開いた。
そして、孔雀明王の呪術を修得する。
孔雀明王の呪文を唱えると、蛇の毒を含むあらゆる毒、病気、災厄や苦痛を取り除くことができるという。

 三十余年ものあいだ洞窟にこもり、藤の皮を衣とし、松葉を食物とする難行修行を続けた小角は、鬼神を駆使できるようになり、五色の雲に乗り自由に空を飛ぶことができたといわれている。

 小角の生きた時代は、律令政治により民に対する締め付けが厳しく、とくに農民に課される労働や税は多くの人々を苦しめていた。
土地はすべて国のものとされ、農民は与えられた土地のなかで農作物を作る。
役人により一段の田からとれる収穫量を一度定められると、旱魃や災害で稲が取れない年があろうと、洪水で田が流されようと、決められた税は必ず出さなければならなかった。
どうにか税米を出せたとしても、農民が食べる分は殆どなくなってしまう。
農民のなかには餓死する者、税が出せず娘を渡す者まで出てきていた。
そのうえ農民は、土木工事などの労役にも借り出されるのである。
田畑での働き手が減れば、その分を残された農民が倍働かなければならない。
借り出される者も、指示された場所まで全て自費で行き、食べる物ですら自分で賄わなければならなかった。
農民はただただ延々と働くだけで、何の希望も持つことができないでいた。

 このような世の中を見ていた小角は、下層とされる民衆や農民たちに少しでも安楽のある暮らしをさせてあげたいと願うのである。
村に下りることがあると、病人に薬草を煎じあたえ、念じることで救った。
人々が集まると、生きる上で最も大切なことは心の持ち方であると説いた。
いまがたとえ貧しく困難な生活であろうとも、これは次なるよき事を呼ぶ段階であると考え、決して折れてはならぬと、前向きな説教を続けた。
村人たちは、小角の説教を聞くと不思議と明日への活力がわいてくるのである。
そばに来て拝む者、貧しい暮らしをしているにも関わらず自らの食事を割ってまで米や芋を与えてくれる者など、小角を見かけるとそこには自然と人々が集まり、そして仏のように尊崇されるようになるのである。
心の救いを求める村人達と接していると、小角はまだまだ吾の修行は足らないと感じてならない。
そして、また山に戻り更に厳しい修行を積むのである。

 小角は、この乱れた世のなかで衆生を済度するには厳しい形相をした本尊を感得したいと、金峯山の山上で千日間念じ続けた。
ある日、目の前に釈迦のお姿があらわれた。
しかし小角は「この御像では、民衆を感化することは困難であるに違いない。」と言う。
さらに念じ続けると弥勒菩薩があらわれた。
小角は「なお、この御像でも民衆を感化することはとても叶いますまい。」と言う。
すると突然、天地が大振動し稲妻とともに、右手右足を上げ憤怒の形相をした蔵王権現が地からあらわれたのである。
この憤怒の形相こそ、小角が求めていた本尊のお姿だった。
小角は喜び「これこそ、わが国の民衆を感化することができる。」と深い祈りを捧げ、感得した蔵王権現のお姿を桜の木に刻み、お堂を建てお祀りしたのである。
(以来、桜の木は御神木とされ手厚く守られ、山岳信仰のある霊山では伐採を禁じるようになる。)

木造 蔵王権現立像
鎌倉時代 金峯山寺

 蔵王権現を本尊として感得した小角は、山を下り衆生を救うための活動を始める。
ある時、箕面山に村人の子をさらっては食う夫婦の二鬼がいることを耳にする。
村人たちの話では、もう何人もの子どもがさらわれ、二鬼の仕業と分かっているがどうすることもできないのだと言う。
夫は赤眼、婦は黄口といい、五つの鬼の子どもを生んでいた。
そこで小角は、鬼の住みかに行き、二鬼が深く愛していた鬼彦という名の鬼の子を呪で岩屋に隠してしまった。
二鬼はたちまち驚いて、必死になって鬼彦を探した。
しかし、いくら探しても居場所は分からなく、小角のところに来て礼拝して言った。
「どうか小角尊者のご慈悲によって、わが子の居所を教えて下さい。」
小角は「それでは二度と村人の子を殺すな。必ず約束は守れ。」と厳しく命じた。
二鬼は頭を地にこすりつけ、小角の言葉を心から聞き入れた。
すると、空から不動明王があらわれ「我は悪魔を降伏させる。もし我の言葉にそむくと必ず害する。」と告げ、鬼彦を二鬼に渡した。
二鬼は泣きながら「我らを済度して下さい。害心を反省し、師としてお仕えしたい。」と願った。
小角は二鬼の名を改め、夫を前鬼、婦を後鬼とした。
この夫婦の鬼は、小角に従い山の開拓のために尽くしたといわれる。
(役行者像は、この二鬼を伴う像が一般的である。)

前後鬼坐像
室町時代 金峯山寺

 小角は庶民の生活を助けるため、山に道を開いたり、川に橋をかけたり、堤防を築いたりした。
それまで、国のためだけに土木作業をしてきた庶民たちにとって、自分達の生活を考えはたらきかけをしてくれる小角はどれほど有難い存在であっただろうか。
人々は小角を慕い、皆で協力し合い一生懸命に土木作業をおこなった。

 葛城修行と大峯修行の両山を開いた小角は、ある時、諸国の鬼神を集めると「金峯山と葛城山との間にに橋を架け渡し、通行できるようにせよ」と命じた。
鬼神たちはさっそく石を運び橋をつくり始めたが、葛城の一言主の大神は「わが顔形は醜いから、橋は夜の間につくりまする。」と言った。
小角は「昼でも遅いのに、まして夜だけとは許さん。速やかにつくって渡れるようにせよ。」と命じたのである。
しかし一言主神はいうことを聞かなかったため、小角は怒り、一言主神を縛りあげると深い谷底に放置した。
一言主神は小角の呪力には勝てないので、宮人にのり移り「小角は天皇の位を傾けようとしている」と朝廷に密告したのである。
それを聞いた役人たちは小角を捕らえようとしたが、空に飛びあがって消えてしまったり、山に入るとその足のあまりの速さにどうしても捕らえることができなかった。
それゆえに、小角の母を人質として捕らえ獄舎に入れてしまったのである。
それを知った小角は、母を救うため、自ら役人の前に出ていき捕らえられるという道を選んだのである。

 金峯山と葛城山の橋掛けは、小角が弟子達に命じた修行ではないかともいわれている。
ここでは一言主神とされているが、これはときの役人を示していると考えられる。
小角は多くの庶民から尊崇される存在であった。
権力者たちににとってはそれがねたましく、
また小角の優れた能力や、山岳修行で得たといわれる薬草の知識を何とか盗み取ろうとする者があらわれるのである。
それを自分の出世のために役立てようと企み、弟子入りする者も少なくない。
小角にとってそのような心はみなお見通しである。
不可能ともいえる厳しい修行を命じることで、弟子達の本性はすぐにわかる。
金峯山と葛城山の橋掛けなど一生かかっても無理である。
こんなことをしていたら、出世をする前に人生など終わってしまうではないか。
安易な考えで弟子入りした者は、楽をしようと言い訳をし修行をさぼったり、
教えて欲しい知識をなかなか教えてくれないと逆恨みをするようになるのである。
そんな小角を、権力を使い滅ぼそうと企んだのではないだろうか。

 文武天皇3年(699年)5月、小角と母は伊豆の大島に配流された。
小角は昼間は島にいて命令に従い、母親に孝行をしていたが、夜になると富士山に登り修行をした。
さらに、霊地を見つけると海の上を踏み渡り、大空を飛んでその地に向かったといわれている。
そして、夜が明けるとともに島に戻っているのである。
小角は配流先の地でも人々から篤い尊敬を得るようになり、その評判はまたたく間に広まったことはいうまでもない。
これほどの能力を持つ小角なら、大島から逃げ出ることも簡単であったかもしれない。
しかし、小角は自分の置かれた状況から決して逃げるようなことはしない。
修行を欠かすことはなく、そして常に、母への孝行、弱者に対する優しさを忘れることのない人物である。


 大島に配流されてから3年が経とうとしていた。
小角の評判の良さを耳にした一言主神は、それをねたみふたたび「小角をすみやかに死罪にせよ。」と告げるのである。
派遣された勅使は、大島に到着すると小角を浜辺に引き出した。
刀を抜き小角に向ける。
その刃を振り上げようとしたときである、小角は刀を左右の肩・面・背に三度触れさせ、最後に舌で刀をねぶり「さあ、早くわれを斬れ。」と言った。
小角の妙な行いを不思議に思った勅使が、その刀を今一度よく見てみると、何やら文字が浮かび上がっている。
紙に写しとると、それは富士明神の表文であった。
勅使は大変に恐れおどろいて、早速天皇に上奏し、その裁下を待つことにした。
天皇は博士を召し出して表文を説明させると、博士は「天皇も謹んで敬い給うべし。
小角は凡夫ではなく、まことに尊い大賢聖である。
早く死刑を免じて都にお迎えし、敬い住まわせ給うべきお方である。」と言った。
天皇は早急に使者を島に送り、小角の死刑を免じた。

 故郷に戻った小角は、母を鉢に載せ五色の雲に乗って天に昇ったと伝えられており、
大宝元年(701年)6月7日が、役小角と母の白専女が冥界に旅立った日とされている。
また、一言主神は小角によって呪縛され、今でもそれは解かれないままであるという。



 平安時代中期以降、役小角の伝説は『今昔物語集』『三宝絵詞』『本朝神仙伝』などによって伝えられている。
鎌倉時代になると『古今著聞集』『私聚百因縁集』『元亨釈書』などで、役小角は‘役行者’と呼ばれるようになる。
室町時代になると『役行者俵末秘蔵記』『役君形生記』『役行者講私記』『役行者本記』など
修験道の教典とされる役行者の書物が作られていく。


 我が国は、全国土の七割以上を山が占めており、古来より山には神仏や祖霊が宿ると信じられてきた。
その聖なる領域に入山し、神仏習合の宗教観をもち修行をおこなうのが修験道であり、開祖と尊崇されるのが役小角(=役行者)である。

 役小角を寺の開基とする寺院は全国各地に数多くあるが、
その全てが実際に役小角によって開かれたものかどうかは定かではないといわれている。
小松寺もそのような寺院のひとつなのであろうか。

 『安房郡誌』によると寺伝が存在し、それには
「文武天皇の御宇、役小角を創建し、巨松山醫王院檀特寺と號称し、次いで養老二年戌午後年小角の古蹟を調べて巨松山檀特寺と再號した」と語られている。
また、小松寺の縁起には「役小角が毎朝房州の山並みにたなびく雲を見て、それが観音の種子に似ていることから霊地に違いないと飛来し、そこに小さな庵を建てた」との言い伝えが残されており、寺院の歴史とともに語り継がれてきた‘小松寺の七不思議’にも役小角が登場している。
さらに、役行者像の造像は、康和5年(1103年)金峯山にて≪役行者御影供≫が始められ、これ以降全国的に広がりをみせ鎌倉時代より本格化しているが、小松寺所蔵の「役の行者半跏像」は鎌倉時代前期の作品とみられており、全国的に最古例の一つに挙げられる尊像である。

 小松寺の開山においては確実な文献資料が残されていないため、それはあくまでも伝承の域を出ない。
しかし、役小角を開祖と仰ぐ修験道との繋がりが、寺院の歴史に深く関係していたことに間違いはないといえる。


 役小角は博学であったが、自身では一冊の書物も遺していない。
それには「仏祖の道というのは以心伝心であって、いやしくも空しい事はことごとくいうべきではない」と答えられたという(役公徴業録より)。
役小角には確かにこの‘以心伝心’を受継ぐ多くの弟子たちがいたのである。

 義覚、義玄、義真、芳元、寿元は五大弟子といわれている。
役小角が伊豆大島に配流となったとき、この五大弟子を中心とした門弟たちは難が及ぶの避けるため、熊野権現の御神体・霊宝を船に奉じ、浄域を求めて3年にわたり各地を放浪したという。
五大弟子は、役小角が赦免になった大宝元年(701年)に児島半島(岡山県南部)に上陸し、その地に熊野十二社権現の御神体を安置した。
それぞれ、尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五つの寺院を設け「五流修験」として中世には一大勢力を誇っている。
五大弟子からまた更にその弟子達へと受け継がれた修験道は、さらに全国各地に広まりをみせるようになるのである。
その後、明治の神仏分離令により、五流修験より十二社権現は熊野神社として分離し、寺院は天台宗寺門派に属した。
(終戦後、昭和21年には、五流尊瀧院は自らを本山とする修験道として独立し、宗教儀式行事を壮厳に執行している)


 修験道は中世期、大峰山では吉野・熊野を拠点として修業か行われ、熊野側では聖護院を本山とする本山派が、吉野側では大和を中心に当山派が形成された。
しかし、明治5年、政府により修験道一宗としての活動が禁止されたことにより、本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなった。

 明治政府による神仏分離令・修験道廃止令により、一時は歴史の隅に追いやられてしまう修験道だが、現在は、奈良県吉野山の金峯山寺(金峰山修験本宗)、京都市左京区の聖護院(本山修験宗)、京都市伏見区の醍醐寺三宝院(真言宗醍醐派)などを拠点に信仰が行われている。


・・・役行者像のかたちと意味・・・
 角帽子  長さは八尺で、不動頂上の蓮華をあらわす
 右手の錫杖  六道の衆生を済度することをあらわす
 右手の独鈷杵  断惑證理の利剣をあらわす
 左手の経巻 
 (般若心経) 
世間真空の二空を示している
 左手の経巻 
 (法華経) 
久遠の成道を示している
 左手の念珠  大悲方便の羂索をあらわす
 口を開いている 法爾念誦の陀羅尼を示している
 藤皮草衣  無明業尽の火炎をかたどっている
 鉄下駄  法性不壊の盤石をかたどっている
 真向きの像  因果不二をあらわしている
 半行半座  行住座臥の威儀をあらわしている


 役行者、名は役小角(えんのおつぬ)、後に、光格天皇から「神変大菩薩」の号を贈られる。
白鳳時代の山岳修行者で、修験道(しゅげんどう)の開祖として山伏たちに崇められている人物である。
全国各地の山岳寺院の多くが彼を開祖としている。
北河内でも、交野市私市の山の上にある獅子窟寺が、この役行者を開祖とする。

 彼が実在の人物であることは確かであるが、史書に残るところは極めて少なく、その生涯の殆どは伝説の中で伝えられている。
しかも、その伝説には色々な異説があり、真実は杳としてつまびらかではない。

 しかし、それらの伝説の中の多くが語っているところによると、彼は大和国南葛城郡茅原村(現在の御所市茅原)で、舒明天皇の六年に、賀茂氏の流れを汲む家に生まれたと云う。
十七才で元興寺に学び、やがて、葛城山で山林修行に入り、さらに、熊野や大峰の山々で修行を重ねる。

 ある時、北の方角に霊光を見、その光を追って摂津国の箕面山の大滝に至り、滝穴の中へ入って、そこで龍樹菩薩から大いなる法を授けられて悟りを開く。龍樹菩薩は二世紀頃の南印度の人であるから、もとより、それは事実ではなく、滝は龍であるとの観念によるものであろう。

 その後、吉野の金峰山に行き、ここで、蔵王権現を感得する。彼は、憤怒の形相すさまじいその仏の姿を、悪魔を降伏させ衆生を済度する仏として、桜の木に刻んで堂に祀る。これが金峰山蔵王堂の草創であると云う。


 やがて、彼は全国の霊山と云われる山々をくまなく遍歴し、その足跡は、北は羽黒、月山、湯殿の出羽三山より、南は彦山、阿蘇、霧島、高千穂に及び、それと共に彼の法力、行力は比類もなく高められて、超人的な域に至った。

 彼には、前鬼(善童鬼)、後鬼(妙童鬼)と呼ばれる夫婦の従者がいたと伝えられ、また、吉野山と葛城山との間に石橋を架けようとしたと云う伝説もある。

 ところが、文武天皇三年(699年)の五月、彼の弟子の一人であった韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が、その能力を妬んで彼を讒言したため、妖術をもって人心を惑わす者として捕らえられて伊豆の大島に流罪になる。
実は、この伊豆嶋流罪の記事だけが、彼について史書が記した唯一のものである。

 そして再び伝説によると、二年後の文武天皇五年(701年)一月、罪を許されて帰京するが、それから四ヶ月後の五月(三月に大宝と改元して大宝元年五月)箕面において寂滅したと云う。

 仏教は平野部に寺院を構えることによって始まったが、しばらくすると、俗塵を離れて静寂な山中に入って研学・修行しようという僧侶たちが現れてくる。
それは原始的な山岳信仰にも支えられたものであった。
役行者はそうした山岳修行者たちの、おそらく、最も早い段階の人物であったと見られる。

 そうした山岳修行者たちによって、次第に修験道が形成されてゆく。
修験道は山岳信仰を基底に置き、それに密教と道教が習合したもので、平安時代iに聖宝らによって体型化される。
この過程において、役行者は修験道の開祖者であるとされた。
最も古い山岳修行者であったことによる。

 修験道の行者たちが山伏である。
彼らは山岳に登って難行苦行を重ねて呪力を体得し、それに基づいて加持祈祷をする。
 山伏たちは全国の山々を修行の場とする。
そうした山伏たちの修行の山々に建てられた山岳寺院は、しばしば役行者を寺の開基とするが、実際に役行者によって開かれたとは限らない。
従って、交野の獅子窟寺も、役行者によって本当に開かれたものかどうかは定かではない。
しかし、少なくとも、そこが、役行者を開祖と仰ぐ山伏たちの修行の道場の一つであったことだけは間違いない。
                                               (北河内古代人物誌より)

地蔵堂 毎月二十四日は
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『般若心経』をお唱えします。
三途河の婆  地蔵菩薩  閻魔大王

地蔵菩薩


地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。

サンスクリット語ではクシティ・ガルバと言う。
クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としている。
また持地、妙憧、無辺心とも訳される。
三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き流しを付けた荘厳具)、錫杖。
種子(種子字)はカ (ha)。

大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。
日本における民間信仰では道祖神としての性格を持つと共に、「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶ菓子が供えられている。

一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。


概要

木造地蔵菩薩坐像 京都・六波羅蜜寺(鎌倉時代、伝運慶作、重要文化財)

菩薩の居所は空居天である兜率天とされるが、地蔵菩薩は地居天である?利天に在って釈迦仏の付属を受け、毎朝禅定に入りて衆生の機根(性格や教えを聞ける器)を感じ、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされる。

虚空蔵菩薩と地蔵菩薩が一対で安置される例は京都・広隆寺(講堂)などにあるが、一般的ではない。


像容

一般には剃髪した声聞・比丘形(僧侶の姿)で白毫があり、袈裟を身にまとう。
装身具は身に着けないか、着けていても瓔珞(ネックレス)程度。
左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ形、または左手に如意宝珠を持ち、右手は与願印(掌をこちらに向け、下へ垂らす)の印相をとる像が多い(この場合、伝統的に彫像であることが多く画像はまれである)。

しかし密教では胎蔵曼荼羅地蔵院の主尊として、髪を高く結い上げ装身具を身に着けた通常の菩薩形に表され、右手は右胸の前で日輪を持ち、左手は左腰に当てて幢幡を乗せた蓮華を持つ(この場合、絵画で表現されることが多い)。


功徳利益

地蔵菩薩本願経には、善男善女のための二十八種利益と天龍鬼神のための七種利益が説かれている。

二十八種利益
 ・天龍護念(天龍が保護してくれる)
 ・善果日増(善いカルマが日々増していく)
 ・集聖上因(聖にして上なるカルマが集まってくる)
 ・菩提不退(悟りの境地から後退しない)
 ・衣食豊足(衣服や食物に満ち足りる)
 ・疾疫不臨(疫病にかからない)
 ・離水火災(水難や火災を免れる)
 ・無盗賊厄(盗賊による災厄に遭わない)
 ・人見欽敬(人々が敬意を払って見てくれる)
 ・神鬼助持(神霊が助けてくれる)
 ・女転男身(女性から男性になれる[1])
 ・為王臣女(王や大臣の令嬢になれる)
 ・端正相好(端正な容貌に恵まれる)
 ・多生天上(何度でも天上に生まれ変わる)
 ・或為帝王(あるいは人間界に生まれ変わって帝王になる)
 ・宿智命通(カルマを知る智慧を持ち、カルマに通ずる)
 ・有求皆従(要求があれば皆が従ってくれる)
 ・眷属歓楽(眷属が喜んでくれる)
 ・諸横消滅(諸々の理不尽なことが消滅していく)
 ・業道永除(カルマが永久に除かれる)
 ・去処盡通(赴く場所にうまくいく)
 ・夜夢安楽(夜は夢が楽しめる)
 ・先亡離苦(先祖が苦しみから解放される)
 ・宿福受生(幸福になる運命の人生を授かる)
 ・諸聖讃歎(諸聖人が讃えてくれる)
 ・聰明利根(聡明で利発になる)
 ・饒慈愍心(慈悲の心に溢れる)
 ・畢竟成佛(必ず仏になる)

七種利益
 ・速超聖地(速やかに聖地を超える)
 ・悪業消滅(悪いカルマが消滅する)
 ・諸佛護臨(諸々の仏が護ってくれる)
 ・菩提不退(悟りの境地から後退しない)
 ・増長本力(本来持っていた能力が増幅される)
 ・宿命皆通(カルマの全てに通ずる)
 ・畢竟成佛(必ず仏になる)


真言

オン カカカ ビサンマエイ ソワカ(Aum ha ha ha vismaye svaahaa)

邦訳すれば『オーム、ha・ha・ha(地蔵菩薩の種子を三回唱える)、希有なる御方よ、スヴァーハー』となる。


信仰

中国における地蔵信仰

偽経とされる『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(預修十王生七経)や『地蔵菩薩発心因縁十王経』(地蔵十王経)によって、道教の十王思想と結びついて、中国においては地蔵菩薩が閻魔または十王の一尊としての閻魔王と同一の存在であるという信仰が広まった。
閻魔王は地蔵菩薩として人々の様子を事細かに見ているため、綿密に死者を裁くことができるとされ、泰山王とともに十王の中心に据えられた。

このため中国においては地藏王菩薩と呼ばれ、主に死後の(地獄からの)救済を願って冥界の教主として信仰される。
日本の神奈川県横浜市中区にも、死者の永眠を祀る地藏王廟(中華義荘)が華僑によって建立されている。

明の民間説話である『西遊記』でも冥界を司る地藏王菩薩が孫悟空(斉天大聖)の暴れっぷりを地獄から天の玉皇大帝に上奏する場面が描かれている。

地藏王菩薩の聖地は、安徽省にある九華山である。これは、新羅の地蔵という僧(696年 - 794年、俗名金喬覚、俗姓と法名を連ねて、金和尚あるいは金地蔵とも呼ばれる)が、この地にある化城寺に住したことに因むものである。齢99で、この地で入滅した地蔵は、3年後に棺を開いて塔に奉安しようとしたところ、その顔貌が生前と全く変わることがなかったことなどから、地蔵を地藏王菩薩と同一視する信仰が生まれ、その起塔の地が地藏王菩薩の聖地となったものである。その故事によって、文殊菩薩の五台山、普賢菩薩の峨眉山、観音菩薩の普陀山と並ぶ中国仏教の聖地(中国四大仏教名山)として、今日まで信仰を集めている。


日本における地蔵信仰

日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。

姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた。
際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もあり、また小僧姿も多い。

賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守る姿は、中世より仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において地蔵信仰を集めた。関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われる。

また道祖神(岐の神)と習合したため、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。


六地蔵

日本では、地蔵菩薩の像を六体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。
これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は六種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを六種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。
六地蔵の個々の名称については一定していない。
地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。
像容は合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていない。

日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。
中尊寺金色堂には、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた三つの仏壇のそれぞれに六体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である。


地蔵菩薩に関する伝承

古代インド王の転生

過去久遠の昔、インドに大変慈悲深い二人の王がいた。
一人は自らが仏となることで人を救おうと考え、一切智威(成就)如来という仏になった。
だが、もう一人の王は仏になる力を持ちながら、あえて仏となることを拒否し、自らの意で人の身のまま地獄に落ち、すべての苦悩とさ迷い続ける魂を救おうとした。
それが地蔵菩薩である。
地蔵菩薩の霊験は膨大にあり、人々の罪業を滅し成仏させるとか、苦悩する人々の身代わりになって救済するという説話が多い。

子供の守護・救済

菩薩は如来に次ぐ高い見地であるが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意でその地位を退し、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続ける。

幼い子供が親より先に世を去ると、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川を渡れず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされ、賽の河原に率先して足を運んでは鬼から子供達を守ってやり、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いていく逸話は有名である。

このように、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩であることから、古来より絶大な信仰の対象となった。

施餓鬼法要との関係

また後年になると、地蔵菩薩の足下には餓鬼界への入口が開いているとする説が広く説かれるようになる。
地蔵菩薩像に水を注ぐと、地下で永い苦しみに喘ぐ餓鬼の口にその水が入る。

仏教上における餓鬼は、生前嘘を他言した罪で燃える舌を持っており、口に入れた飲食物は炎を上げて燃え尽き飲み食いすることは出来ないが、地蔵菩薩の慈悲を通した水は餓鬼の喉にも届き、暫くの間苦しみが途切れると言われている(その間に供養を捧げたり、徳の高い経文を聞かせたりして成仏を願うのが、施餓鬼の法要の一端でもある)。
これは六道全てに隔てなく慈悲を注ぐと言われる地蔵菩薩の功徳を表す説であり、施餓鬼法要と地蔵菩薩は深い関係として成立していった。

仏教上では、非道者で仏法を否定、誹謗する者を一闡提(略して闡提)というが、これには単に「成仏し難い者」という意味もあることから、一切の衆生を救う大いなる慈悲の意志で、あえて成仏を取り止めた地蔵菩薩や観音菩薩のような菩薩を「大悲闡提」と称し、通常の闡提とは明確に区別する。


道祖神との関係

先に述べた「六地蔵」とは六道それぞれを守護する立場の地蔵尊であり、他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に多く建てられた。
また道祖神信仰と結びつき、町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。これを本尊とする祭りとして地蔵盆がある。
また道祖神のことをシャグジともいうことから、シャグジに将軍の字を当て、道祖神と習合した地蔵を将軍地蔵(勝軍とも書く)とも呼ぶようになった。


垂迹神

神仏習合のもとで地蔵菩薩の垂迹とされる神としては、愛宕神や天児屋根命がいる。


地蔵菩薩を祀る寺院の例
 ・法隆寺(奈良県斑鳩町) - 平安時代前期、(大御輪寺旧蔵)
 ・岩水寺(静岡県浜松市) - 鎌倉時代、裸形系着装像
 ・木之本地蔵院(浄信寺)(滋賀県長浜市) - 日本三大地蔵尊、鎌倉時代
 ・広隆寺(京都府京都市) - 平安時代(埋木地蔵)
 ・六波羅蜜寺(京都府京都市) - 鎌倉時代、運慶作(推定)
 ・六波羅蜜寺(京都府京都市) - 平安時代(鬘掛地蔵)
 ・浄瑠璃寺(京都府木津川市) - 平安時代
 ・帯解寺(奈良県奈良市) - 鎌倉時代(帯解子安地蔵)
 ・東大寺(奈良県奈良市) - 鎌倉時代、公慶堂安置、快慶作
 ・東大寺(奈良県奈良市) - 鎌倉時代、念仏堂安置、康清作
 ・福智院(奈良県奈良市) - 鎌倉時代
 ・伝香寺(奈良県奈良市) - 鎌倉時代(法服地蔵)
 ・室生寺(奈良県宇陀市) - 平安時代(五尊像の一つとして)
 ・宝戒寺(神奈川県鎌倉市) - 仏師憲円の作。
 ・善願寺(京都府京都市) - 平安時代(腹帯地蔵)
 ・菩提寺(青森県むつ市) - 恐山の中核をなす寺院。地蔵菩薩を本尊とする。
 ・高岩寺(東京都豊島区) - 巣鴨とげぬき地蔵尊
 ・建長寺(神奈川県鎌倉市) - 地蔵菩薩を本尊とする
 ・壬生寺(京都府京都市) - 地蔵菩薩を本尊とする
 ・朝田寺(三重県松阪市) - 平安時代、空海作。地蔵菩薩を本尊とする
 ・宝珠寺(和歌山県新宮市) -延命ぽっくり地蔵を本尊とする。足の親指を上げている希な地蔵菩薩
 ・延命寺(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町) - 平安時代・延命地蔵菩薩を本尊とする
 ・如意寺(兵庫県神戸市) - 地蔵菩薩を本尊とする
 ・円宗院(神奈川県平塚市) - お助け地蔵尊
 ・本光寺(千葉県市川市大野町) - 水子供養地蔵尊。水子供養地蔵尊と命名された最初の水子地蔵。
 ・大雲寺(岡山県岡山市) - 日限地蔵で知られる。子宝祈願
 ・生蓮寺(奈良県五條市) - 雨晴れ地蔵。雨乞い晴れ乞い。
 ・浄名院(東京都台東区) - 八萬四千体地蔵尊 江戸六地蔵(第六番)
 ・矢田寺(奈良県大和郡山市) - 地蔵菩薩を本尊とする
 ・西念寺(長野県佐久市) - 幼児40名の供養 、(子育地蔵柳堂)
                                         (Wikipediaより)

南無阿弥陀佛 阿弥陀堂
毎月十五日は
阿弥陀さまの
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午後二時より法要がございます。
ご自由にお入りください。
みなさまとご一緒に
『自我偈』をお唱えします。
御朱印所

  阿弥陀

阿弥陀如来(あみだにょらい)は、大乗仏教の如来の一つである。
梵名は「アミターバ」(Amit?bha)、あるいは「アミターユス」 (Amit?yus)といい、それを「阿弥陀」と音写する。
「阿弥陀仏」ともいい、また略して「弥陀仏」ともいう。

梵名の「アミターバ」は「無限の光」、「アミターユス」は「無限の寿命」の意味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。
西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ(東方は薬師如来)。


経典・儀軌

浄土三部経


「浄土三部経」の内、『無量寿経』と『阿弥陀経』の成立時期については、無量寿経の成立時期と編纂者を参照。

『観無量寿経』については、サンスクリット原典が2011年現在発見されていない。
中央アジアで作成されたと考えられる。

『仏説無量寿経』
一切の衆生救済のために王位を捨てて、世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名乗り修行し、衆生救済のための五劫思惟し、浄土への往生の手立てを見出し、衆生救済のための「四十八願」を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就し仏となった報身仏と説かれる。
また、現在も仏国土である「極楽」で説法をしていると説かれている。
特に浄土教諸宗においては、「四十八願」のうち「第十八願」を重要視する。

『仏説阿弥陀経』
「極楽」のありさまと、阿弥陀仏の徳が説かれる。
東方・南方・西方・北方・下方・上方世界のガンジス河の砂の数ほどの諸仏から賞賛されていると説かれる。
そして「極楽」に生まれる方法が説かれる。


信仰

浄土真宗


浄土真宗においては、阿弥陀如来一仏を本尊とする。
中心教義も阿弥陀如来の本願力にのみ帰依することとする(詳細は、他力本願を参照)。
真宗においては、『観無量寿経』の「住立空中尊」という表現から、立像であるべきとされる。

末法濁世の衆生は、煩悩具足の凡夫であり、自らの力(自力)では、いかなる善も完遂しえないとする。
そのため「他力」によってのみ救済されるとする。

釈尊が「浄土三部経」によって説かれたことに由来し、善導は『観無量寿経疏』にて、法然は『選択本願念仏集』(『選択集』)にて注釈し、それらを受けた親鸞が『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)において引用・注釈する。
この事は『歎異抄』の第二章に、端的に述べられている。

チベット仏教

チベット仏教では、無量寿仏と無量光仏は区別されている。
また、ゲルク派第二位のパンチェン・ラマは無量光仏の化身とされる。
チベット死者の書によれば、(大日如来、阿?如来、宝生如来に続いて)死後の4日目に魂の救済に現れるとされる。

その他の経典における阿弥陀如来

浄土三部経以外にも阿弥陀如来は多くの大乗経典に登場する。
法華経の薬王菩薩本事品にも阿弥陀如来は登場し、サンスクリット語原文においては法華経の観世音菩薩普門品にも阿弥陀如来について言及されている。
仏説出生菩提心経においても阿弥陀如来の願力が言及されている。
大乗離文字普光明蔵経においても、大乗離文字普光明蔵経の持経者が阿弥陀如来の来迎を得ることが説かれている。



成立年代

阿弥陀仏信仰の成立年代とその地域については、仏像にせよ、文献にせよ、特定の手がかりとなるものが少ない。
しかし、浄土系経典に用いられる仏教用語は部派仏教のそれを下敷きとしており、少なくとも部派仏教確立より以後の成立と考えられる。
また浄土系経典の漢訳者の出身地は西域および北インドが多いことから、これらの地域で阿弥陀仏信仰が盛んであったことがうかがえる。

また、アレクサンドロス大王の東方遠征以降、ギリシア系のインド・グリーク朝やイラン系のクシャーナ朝などの支配のもと、北インドと西方世界の交流があったことを背景に、ゾロアスター教やミトラ教、あるいはキリスト教などが阿弥陀仏信仰の成立に影響したとの説も一部で見られるが、いまだ客観的根拠に乏しい。

碑文に記された阿弥陀仏の最古の例は、北インドのマトゥラー近郊出土の足だけを残す仏の台座(マトゥラー博物館所蔵)である。
記銘によると、クシャーナ朝のフヴィシカ王の28年(西暦2世紀後半)に、隊商により奉献されたものである。

阿弥陀仏に言及した経典の現存する最古の例は、後漢末期の西暦179年に西域僧の支婁迦讖によって漢訳された『仏説般舟三昧経』である。
また西暦148年にはすでに安世高が『無量寿経』を漢訳したと伝えられるが、欠本となっており現存しない。

西暦2世紀末になってこれらの彫刻や文献が出現することから、阿弥陀仏の信仰と教義はクシャーナ朝前期の西暦1世紀から2世紀の間に発達したと推測される。


垂迹神
 ・熊野権現
 ・八幡神

像形

三昧耶形は蓮の花(金剛界曼荼羅では開花した蓮華、胎蔵曼荼羅では開きかけた蓮華)。
種子(種子字)はキリーク。

造形化された時は、装身具を着けない質素な服装の如来形で、印相は定印、説法印、来迎印などがある。

阿弥陀三尊として祀られるときは、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩を配する。

密教においては、五仏(五智如来)の一如来として尊崇される。
像容は一般的には上記の顕教のものと同じだが、一部には装身具を身につけたものもある。

密教式の阿弥陀如来のうち、紅玻璃色阿弥陀如来と呼ばれるものは髷を高く結い上げて宝冠を戴き体色が赤いのが特徴である。
主に真言宗で伝承される。
また宝冠阿弥陀如来というものもあり、こちらは天台宗の常行三昧の本尊として祀られる。
紅玻璃色阿弥陀如来と同じく宝冠などの装身具を身につけ、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩の四菩薩を
眷属とする。
                    (Wikipediaより)

寺務所 結構混んでいましたが、あまり待たないでいただけました。    朱印帳引換券 15番
観音堂 お坊さんたちが出てきました。
鉦を鳴らしながら本堂に向かいます。
お坊さんたちを見送って七福神の方へ足を運びました。
三福神の提灯があります。 境内にバス停があります。
江戸最初山手七福神 恵比寿尊 江戸最初山手七福神 恵比壽神 七福神の幟
金明湧水 福銭洗い 三福神にお参りしてから、ご縁に導かれますように洗うお金に五円玉を添えて一緒に洗ってください。
三福神
弁財天
恵比壽神 大黒天 大黒天
豊川稲荷

             
瀧泉寺(目黒不動尊)

 天台宗泰叡山瀧泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、
通称「目黒不動」と呼び親しまれています。
江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。
また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、
門前町とともに大いに賑わいました。
さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。
 境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、
江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。
 その他、境内には「銅造役の行者倚像」、「銅造大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、
仁王門左手の池近くには「山手七福神」の一つのえびす神が祀られています。
 裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、
墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。
                                                                      平成21年
                                                              
目黒区教育委員会